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うさっちによる漫画絵描き日記


by うさっち(うさ便)
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地獄・餓飢・畜生・修羅・人・天、この6つの生命境涯を纏めて六道と言います。
私達凡人を指す意味でもありますが、仏道を行じることで、ここにさらに4つの境涯が加わります。
声聞・縁覚・菩薩・仏、これらを、四聖と呼んでいます。
釈尊の仏法においては主に修行僧の位として使われていましたが、後世の仏法では一切衆生の中に含まれると説かれます。

今回は原始経典をやっているので、声聞・縁覚についてご紹介します。

・声聞
7番目に位置するこの声聞は人の教えを聞いて仏道に入るものを指します。
あるいは教えられながら仏法を行じているものです。なので原始仏典に登場する釈尊の弟子は、全員声聞という事になります。
教えを聞いて実践するという事で、境涯の中では尊い存在ではあります。
しかし欠点がありまして、教えに固執し、その枠から出ないという性質を持っています。

・縁覚
独覚とも呼びます。何らかのきっかけで自ら仏道を得しめる者を指します。
声聞と位において差異は無く、7,8番目は同一です。
こちらも尊い者であるものの、やはり考えは固執し、その枠から出ません。

現実で言うとこの二者は、テキスト通りで無個性すぎるのと、かたやは個性的すぎるといったところでしょうか。客の立場から見れば善しとしても企業から見たら扱いずらい人材だなどと、安定していない様が似ているかと思います。


これらの境涯は原始仏教の体質にも見られて、解脱や涅槃は説くのですが、成仏について説かれないのと同じです。
あくまで社会に生きることを踏まえた仏道で、完全ではないという事です。
実際に、声聞・縁覚は、法華以外の教えにおいては成仏しないとされています。

原始仏教が後代に小乗教と呼ばれ、卑下された理由がここにあります。
実生活の中で説かれる原始仏教は歴史的に見ても貴重で、また私達の生活にも浸透しやすいのですが、極めたとしても仏法としてはほんの一部にしかないので、これで終わってしまうと、勿体ない気がします。


声聞・縁覚はとりあえずは称賛されますが、続く道がありません。
一時の成功、逆を言えば足踏みです。
出来るものなら反面教師とし、広く視野を持ち、最後には捨て去りたい生命境涯です。


# by usacchi2006 | 2019-11-16 19:44 | 仏教 | Comments(0)

ブッダの教団と信仰

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仏教教団といっても、後世になって仏教と呼んでいるだけで、当時特に名前があった訳ではありません。

かつてのオウム真理教も主張していたそうですが、仏教という名前は、釈尊が入滅した後に出来た言葉です。当時はジャイナ教とかアージーヴィカ教とかあったのですが、釈尊の集いはそれらの全てに属さないと主張した、無所属の集いです。

これは日本でいうと日蓮聖人が同じで、日蓮宗とは、日蓮の死後に出来た宗派です。
日蓮の主張は、教主が一人なのに、なぜこうも教えが分かれているのか、一つであるべきだというものです。
彼が法華経信仰に収束したのはその結果で、多くの信徒を持ちながらも、宗派としての名前は持っていませんでした。


釈尊の教団も元々は無名集団ということですが、悟った人の集いという事で、評判は良かったようです。
ここでも紹介してますが、始めは妬みが多かったものの、それらに打ち勝ってうわさはたちまち広がり、人も増えていきました。
王様や長者から土地や寺院などを贈与され、一つの教団として成り立っていきました。

その信仰形態は至って普通の修行僧です。
釈尊自身はヴェーダ聖典を修得していますが、特に何かを拝んでいたわけではありません。
この世の道理に基づき、不殺などの戒律を守らせ、自身を磨くための修行に努めさせ、また自分自身も怠ることなく行っていました。

この道理を真理とか理法とか呼ぶのですが、しいて言うならこれが信仰対象という訳です。

人としての在り方を尊重し、身分の低いものから出家させ、後に身分の高いものを出家させて均衡を計ったり、女性の出家を許可するなどの新しい姿勢もとっており、時代に合わせていままであった信仰形態を変えてもきました。この辺は後期仏教では親鸞聖人の思想に近いものがあると思います。


今日では仏教という名前を持っていますが、この仏という字が何を指すかというと、神様仏様ではなく、理に適ったという、いわば学説です。それはブッダという解を探す旅なのですが、2500年に渡る壮大な伝言ゲームの末に、人々からは遠い存在となってしまっています。


# by usacchi2006 | 2019-11-10 17:48 | 仏教 | Comments(0)

敵は内部から

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提婆達多(だいぼだった)という名前を聞いたことがありますでしょうか。
桃太郎伝説のボスだったり、最近ではモンストにもいたりしますが、仏教では代表的な悪人です。

組織の敵は内部から、とよく言ったものですが仏教も例外ではありません。むしろ原点なのではないでしょうか。
釈迦の時代、仏教教団に対し反旗を翻した者がいました。それが提婆達多です。

提婆達多は梵語でディーヴァダッタと言いまして、釈尊と同じ釈迦族の生まれです。
生い立ちは諸説ありますが、釈尊の従兄弟で、また、弟子のアーナンダの兄というのが有力なようです。

そんな彼ですが、自身は釈尊より勝れているという慢心からか、別な戒律を作るも受け入れて貰えず、500人の弟子を引き抜き自ら教団を建て、反旗を翻しました。
このように教団の統率を乱す者を、破和合僧といい、五逆罪に触れたので悪人と今日まで伝えられています。
また、他に犯した罪として、白象を酔わせて釈尊を襲わせたり、マガタ国の王子をそそのかして王を殺させた等とも言われています。

これを釈尊が放っておいたわけではなく、後日、舎利弗と目連の説得によって引き抜かれた弟子達は釈尊の元に戻ったそうです。
その後自らの行いを過ちと感じ、悔いたディーヴァダッタは釈尊の元へ戻ろうとするのですが、祇園精舎を前に地面が裂け、そこから噴き出る火に焼かれて死んだらしいです。この時にディーヴァダッタは釈尊に心から帰依することを誓ったといいます。



◆◇◆◇

団体や成果を持つと、人はついつい気持ちが昂るものです。
また、組織の内側を知れば当然、微弱な部分も見え、そこから突破口を考えてみたりもしてしまいます。
なので大きな組織から内部反発が起こるのは、むしろ必然とも言えます。
乱心を起こす内部者を増上慢と呼びますが、この増上慢を煽るのが魔の働きであり、魔の中でも一番大きい「第六天の魔王」の所業だといいます。

戒律に共感した者もきっと500人より多かったことだと思います。
しかしながら、戒律というものがなぜあるのか、そこを改めて考えなければない時でした。
戒律とは組織のルールです。仏法も世法に従うように、従順であるべき場所がありますが、視野が狭い時には割と見えないものです。



# by usacchi2006 | 2019-11-09 00:54 | 仏教 | Comments(0)