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うさっちによる漫画絵描き日記


by うさっち(うさ便)
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次回イベント告知 19/9/6

告知用なので、この記事はしばらく優先表示します。
新しい投稿は下に表示されます。


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次のイベントは2019年10月26日(土)横浜産貿ホール マリネリア
「オンラインゲームオンリー合同イベント2019秋」内、アズレン夢想8
です。よろしくお願いします!

出し物は前回サンクリ夏と同じ予定です。(クリアファイルは品切れです!)
スケブもお受け致します!




それから、サンクリ秋(11月3日(日曜))の方も申し込みました。

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こちらはまたしても二次募集になってしまい…落ちてたらゴメンナサイ
新刊のイラスト本を予定しています!10月中旬頃にサンプルをPIXIVに公開する予定です。

現在、アニカノのフィルムブック片手に誠意製作中です。。
ラフやコメントを織り込んで、前回よりももっと冊子らしいものをと思ってやってます。
ONE入れるって言ってたのですが、入れないことにしました。またまた20thを祝う、Kanonオンリー本です!


# by usacchi2006 | 2019-10-26 22:22 | イベント | Comments(0)

原始仏教・3

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本題の前にバラモンについて説明します。
バラモンとは、古代インドカースト制度において頂点に立つ、神官に当たる人々です。
ヴェーダと呼ばれる聖典を信仰し、祭事を行ってきました。
これが当時の国家宗教みたいになっていたものです。
今日ではバラモン教と呼ぶことがありますが、この信仰が当たり前にあった時代なので、名称は基本ありません。

バラモンでは火を焚くこと、水で体を流すことで身を清められるとしてきました。
今回はバラモン達が火の祭事を行っていたときに、托鉢にやってきた釈尊の説法です。


(バーラドヴァージャが托鉢に訪れた尊師に言った)
「三つの明知を具え、生まれもよく、大いに学識があり、
明知と実践とが完全にそなわっている人こそ、わが乳粥を享受するがよい。」

(釈尊)
「多くの呪文をやたらとつぶやいても、人は生まれによってバラモンとなるのではない。
内心は汚物に汚れ、欺瞞に覆われている。
前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を確立した聖者、――
この三つの明知があることによって、〈三つの明知をそなえたバラモン〉となるのである。」


――――


(剃髪している釈尊の頭を見て、下賤な生まれだと思ったバラモン・スンダリカ)
「あなたの生まれは何ですか?」

(釈尊)
「生れを尋ねるな。行いを尋ねよ。
火は実に微細な木材からも生じる。たとい賤しい家柄の出身であろうとも。
毅然として、慚愧の念で身を防いでいる。
聖者は、高貴の人となる。
真実によって制御され、諸感官の制御を身に具え、
智慧の奥義に達し、清浄行を実践した人、祭儀を準備した人は、かれにこそ呼びかけよ。
供養され敬わるべき人は、適当な時に供物を火の中にささげる。」


「バラモンよ。木片を焼いたから浄らかさを得られると考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることが出来ない、と真理に達した人は語る。

バラモンよ。私は外的に木片を焼くことをやめて、
内面的にのみ光輝を燃焼させる。
永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、
敬わるべき人として、私は清浄行を実践する。

バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。
怒りは煙であり、虚言は灰である。
舌は木杓であり、心臓は[供養のための]光炎の場所である。
よく自己をととのえた人が人間の光輝である。

バラモンよ。戒めに安住している人は法の湖である。
濁りなく、常に立派な人々から立派な人々に向って称賛されている。
そこで水浴した、知識に精通している人々、
肢体がまつわられることのない人々は、彼岸に渡る。
真実と法と自制と清浄行、――
これは中道に依るものであり、ブラフマンを体得することである。

バラモンよ。善にして真っ直ぐな人を敬え。
その人を、わたしは〈法に依っている人〉であると説く。」


■□■□


長かったです。

今回焦点にしたいところは二つなのですが、一つは生まれの事。
人間ついつい生い立ちで評価しがちですが、たといテレビに出た人だからといっても、そのすべての人が優れているかと言えば違うはずです。
本当に褒められるべき人とは見えないところに居るものだと、仏法の浸透したこの国に居るならばきっと誰も聞いたことがありますでしょう。
人間作りは同じだし、積む苦労はそれぞれです。

もう一つは、火の供養を外面的なものだと破折していることです。
お経を唱えて、仏像拝んで、はい御利益では、本当にそれで終わって自身は何も得られません。
祈りに込められた願を起点として、行動しなくてはなりません。
まさに、その願を燃焼させて輝かせるが如く、です。
ここでは優れた修行僧の事を指していますが、どの社会生活においても同じことだと思います。



物事にはどれをとっても言葉があり、名前が付き、それぞれに沢山の言語があります。
しかしそれらは最初からあるわけでなく、人が文化の中から言語を造りだし、一切の物事に与えていったものです。
名前を追えば、これが執著で、執著が生まれれば、苦しみが生まれてきます。

結論、真なる評価はいつも名前のその先にあるということですが、これは大乗経典にあります般若経の空観に通づるものです。
このように原始経典は大乗経の骨格を持っています。
逆に言えば大乗経とは原始経典を発展させたものともいえるはずです。


# by usacchi2006 | 2019-09-22 23:41 | 仏教 | Comments(0)

原始仏教・2

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本日二つ目の記事です。
一日一記事書けばいいと思うんですが、最近は一日の終わりにこれやるのが楽しみになっています。

今日は前回に引き続き原始仏教の引用です。
参考文献は岩波文庫の「ブッダ 悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤⅡ)」です。


怒りの感情と対峙した時の、釈尊の説法です。


「罵る者」というバラモンは、ヴァーラドヴァージャというバラモンがゴータマのもとで出家して家なき状態に入ったそうだ、ということを聞いた。
(出家信者になったとの意です)
かれは、心に喜ばず怒って、尊師のもとにおもむいた。尊師に近づいてから、野卑な荒々しい言葉で罵り、非難した。
このように言われたときに、尊師は、「罵る者」につぎのように言われた。

「バラモンよ。そなたはどう思うか?
友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちがそなたのところにやってくるだろうか?」

「ゴータマさん!友人・朋輩・親戚・血縁者・客人たちがときどきやってきます。」

「バラモンよ。そなたはどう思うか?
わたしはかれらに時々、噛む食物・吸う食物・美食をさし出しますか?」

「ゴータマさん!わたしはかれらに時々、噛む食物・吸う食物・美食をさし出します。」

「バラモンよ。もしもかれらがそれを受け取らなかったならば、それは誰のものとなるのでしょうか?」

「ゴータマさん!もしもかれらが受けなかったならば、それはわれわれのものになります。」

「そのとおりなのです。バラモンよ。
罵ることのないわれわれをそなたは罵った。怒らないわれわれを怒った。
争論することのないわれわれに争論をしかけた。

しかしわれわれはそれを受けとらない。バラモンよ。これはそなたのものとなるのだ。

ところが罵らないわたしに罵り返し、怒らないわたしに怒り返し、
争論しないわたしに争論し返すならば、この人は共に会食し、共に付き合うと言われる。
だからわたしたちは、そなたと会食しないし、共に交換することもない、
バラモンよ。これはそなたのものとなる。これはそなたのものとなる。」

「王と共にいる従者たちは、ゴータマ様をこのようなものだと知っている。
――『道の人、ゴータマは敬わるべき人である』と。それなのにゴータマ様は怒る、と。」

(尊師いわく、――)
「怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人、
心が静まったそのような立派な人に、どうして怒りがあろうか。
怒った人に対して怒らないならば、勝ちがたき戦にも勝つことになるのである。

他人が怒ったのを知って、心に気をつけて他人が怒っているのを知っても、
自ら気を落ちつけて静かにしているならば、
その人は、自分と他人との両者のためになることを実行しているのである。

真理に到達していない人々は、自分と他人と両者の治療を行っている人のことを、『かれは愚人だ』と考える。」


□■□■

これはもう文章どおりなので加筆することないですが、いつの時代も怒ってる人に乗っかっていくのは好ましくない、ということです。
怒りの精神境涯は修羅です、修羅の心は相手の修羅をも引き出します。
修羅の功徳は大きいですが、自分の生命境涯を下げているので、結果として堕落します。
勝ちがたき戦に勝つとの喩えからわかりますように、それが凡夫(一般人)ですが、あえて抑えることを教えています。
そしてそれは結果として相手の為にもなる、ということでここでも自他行を説いています。

それを実践しても、無知な人には馬鹿なやつだと笑われるかもしれません。
(今は法治国家の恩恵であまりそんなことないと思いますが)

ですが賢者は泥にまみれて進むが如く、
それは泥沼に咲く、蓮華の花のようにと、心の清浄を説かれています。

彼らの着ている袈裟という服もそれを表しています。
あれは、元々は死体を包んでいたボロ布の再利用なのだそうです。

# by usacchi2006 | 2019-09-21 23:58 | 仏教 | Comments(0)