さて今回は#20の後編、「黄金の車」についての解説、精解となります。
改めて読んでみると、他と比べて話に深さがあり、本当に良く出来ています。
旧解説では、一般大衆に向けて、花に例え、とても丁寧に、優しく解説されていますが、
三年経つ今回は、骨格そのものを哲学的に説明していきます。
まあしかし、今回も長くなってしまいました。
■#20振り返り解説・後半(黄金の車~原動力とメカニズム)
会話冒頭では、アウラクイン、フランチェスカの両者が、自分は何でも出来ると言います。
それぞれ意味こそ違いますが、どちらが立派か、という問いにフランチェスカは、
両方だめだと言います。お互いがお互いを欠いている。それはどういう意味なのでしょうか。
・フランチェスカの見解
フランチェスカの「何でも出来る」は、どんな物事にもその能力を発揮できる力量を指します。
アウラクインの「何でもやる」は、どんな物事も正しく認識し、想像が働く理性を指します。
そして、対称させて見れば、それぞれの欠点という事です。
※当時の哲学より、力量のことをヴィルトゥ、理性をラジオ―ネ、幸運をフォルトゥーナと呼び、
この三つを具えていることこそ、優れた人間である条件とされています。
フランチェスカの見解はごく一般的。そして簡潔なる評価となっています。
・アウラクインの見解
しかしアウラクインの解釈は、全くの別次元です。こちらは理性から見た見解とも言えますが、
その解釈自体にも、彼女の理性が最大限究極に発揮されています。
フランチェスカの見解が平面に地図を描くようなものなら、アウラクインのはまさに地形の立体像で、
力量や理性の区分けだけでなく、それぞれが階層を持ち深さがある観察体系、それが「黄金の車」です。
フランチェスカのように一つの自分の要素を評価して雄牛などとするのではなく、
また、理性だけを見て自分とするのも、これは宗教を妄信するようなもの。
そうではなく、「車」として、全部そろって初めて自分となる。というアウラクインの見解です。
・力量に相当する「雄牛」
フランチェスカは自身の力量を「雄牛」とします。黄金の車では、「走力」に相当します。
彼女はこの力量を「自己」と結論付けますが、アウラクインは、この力量こそ手綱で引かれるもの、
つまり「手段」としています。そして、それをコントロールする「御者」がいることを、明かします。
「ええ、だって雄牛は強くて、仕事の役に立って、しかも肉を必要としない
肉を必要としないとはつまり、他者を損ねることがなければ、財を貪ることも無いわ
これほど誇らしいことがあるかしら」
「手綱で引っ張られても?」
・理性に相当する「御者」
手綱がコントロール(またはオペレーション)ですから、御者はプログラムになります。
現実でいえば知恵の深さ。すなわち、まっさらな勘や運任せ、次に教訓や教示、そして極は、道理です。
直接雄牛を引くというのは、勘や運任せの事です。
フォルトゥーナに引かせているというのは、哲学から来てますから、教訓や教示にあたります。
そして、アウラクインのアウローラが道理に相当し、代替されます。
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教訓や教示がそのカテゴリーの価値において、運や勘に勝るのは、自明の理です。
道理は、正しければ正しいほど運や勘を上回るのはもちろん、教訓や教示にも勝ります。
つまり「神々が荷台に乗ってくる」というのは、道理が、以下の全ての価値を、包含するからです。
※勘や運が教訓教示に勝るという逆転現象がある。しかし、それは誤認識であることを知るべき。
そこに掛け合わさる「経験」とは教訓教示に属するもので、これを極に磨き上げることで、
次第に道理に近づくようになっています。
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「あなたはさっき、お互いが、お互いを欠いているといったわ
でも、あなたの運転席にアウローラが乗ったということは、両方具えたことになるわ
今度はその荷台に神々が乗ってくる。
明知が手綱を取るのだから、それを神々が祝福しないわけが無い
勿論、フォルトゥーナも戻ってくるわ
そういうわけで、あなたは今、至高の車を手にしているのよ」
私達の体が思考や身体能力に基づき動くのは当たり前のことですが、
御者というのは、学習や経験則であり、また、絵本などの創作でも代替できます。
例えばこの作品を読んで、フランチェスカになりきって仕事を頑張るとした場合、
フランチェスカが自分の御者になっている、という事なんですね。
フランチェスカを雄牛でなく、一人の人間としての「車」と例える。
そこにアウローラが乗る[操作する]ことで力が正しく発揮されて”雄牛の英雄”となり、
これこそが真実の雄牛となる訳です。
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#54では、アンジェッタの主人が、真実の傭兵隊長となったことも同様です。
「熊が隊長の傭兵部隊」があったとすれば、アウローラに主従することで”真実の傭兵隊長”となります。
アレッサンドロの犀の王も同じ。アウローラの住まう黄金の街、そこの王と認められることで、
真実の犀の王とすることができます。
しかもここでのアウローラは、いずれもフランチェスカのことで”雄牛の英雄”です。
これは間接的に道理を共有しているということであり、この繋がりこそ「黄金の手綱」です。
また、このように、片方の道理によって、もう片方に道理を映し出す。
その道理がアウローラであることをもって「黄金の明鏡」となります。
映し出されたものは、等しいものです。ですから、逆になっても成り立ちます。
#33で、黄金のアルノ川に雄牛の姿が映ったというのは、
実は実体のことではなく、アウローラを通じて自身のアウローラを明かす知恵そのものを例え、
それが更に、作品を貫き、読み手にまでも映す[道理が現実にあることを示す]ことを、謳っています。
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・フランチェスカが得た「アウローラ」とはどれか
「そうよ、けど、誰にそのアウローラが居るのか、それを探すことはすごく簡単よ
なぜなら、その人にアウローラが居れば、私を見つけることが、出来るからよ」
アウラクインを見つけたというのも、実体の事ではありません。
それはフランチェスカに内在しているもののこと。
見た目や立場に囚われず、相手の本質を見抜けるかという真理観を持っているか、です。
その真理観に導くものこそ、フランチェスカの平等思想からくるものです。
つまり平等思想が、真理観の一端を担い、相手のアウローラを直観しているのです。
平等は、どっかの人気創作のように、只もてなせばいいというものではありません。
その結果を嘆いてもそれこそ自業自得というもの。本当はそうではない。
真実を見抜きこそですから、よくよく相手の境遇を把握するための真理観がいる。
だからこそフランチェスカは、競争[力量比べ]することを持ちかけた訳です。
それがまさか競争[力量]の建前を貫き、アウラクイン[の理性]が真に勝ちました。負けて勝った。
しかし、そんなことも本当は、フランチェスカの意図通りだったことでしょう。
ここでの真実とは、一個人の魅力の最大限。その素質の究極。
そしてその価値観はお互いの夜明けとなる。つまり、アウローラに代替されます。
両者は出会った時点で、お互いにお互いのアウローラを、見つめ合っていたのです。
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以上、黄金の車の仕組みに解説しまして、生活の原動力、ひいては人生の原動力が
アウラクインなりの解釈を伝えられたと思います。
「走力」だけでなく「御者」がいること、それが大小に非ず様々な種類が階層を為しており、
そしてそれがアウローラ…つまり道理を用いることで、己の「走力」は、最大限発揮されます。
「多くの優れた能力も、道に従わなければ自在に発揮されない
他者を損ねることがなければ、財を貪ることも無い
ということが善いのなら、あなたは雄牛でなく、うさぎで済むはずよ」
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先ほども出ましたが、負けて勝つ。勝ちに執着することなく、事の本質をつかむという事。
黄金の車を始めとした彼女から生まれてくる創作の一切はそのことが最大限発揮されている。
つまり、それらは彼女の理性であり、小宇宙なのです。
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しかし、道理でも間違っていればその力は正しく発揮されず、
もしその道理があべこべであればどうなるかといいますと、その評価があべこべとなります。
間違った力の使い方となるからです。
先ほど、物語など創作でも道理の代替は利くと書きましたが、
当然その創作が間違っていれば、力も間違って使われます。
子供は創作の影響を直に受けます、その見極めは非常に難しい。
けれど、道筋の通った正しい道理を明かせば、その取捨選別が出来、
そして悪しき創作[道理]を貫く剣へと変わります。これが次話に出てくる「アウローラの剣」です。
というわけで、次回も詳しくやりたくはあるんですが、
まあ読めんので、色々イージーを務めていきたく思いますが、どう始末付けたものか。
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今回この「黄金の車」は、当時にコラムも作成されています。
少女たちの生い立ちを花に例え、とても丁寧に、優しくまとめてありますので紹介。
この例えこそ、現実の「黄金の明鏡」であるかもしれません。